日記10/10(特別編:霧ヶ路紀行)

 昨日から今日に掛けて、早朝の霧と雲海で有名な海沢に出掛けた。海沢という地名は内陸県の埼玉にあって非常にユニークだけれど、この海は雲海のことを指していて、沢の方はというと嵐山(らんざん、と読む。念のため)、玉川、小川町、東秩父と流れる槻川の源流域に集落があったことにちなんでいると思う。時の流れとともに集落はだんだんと下流域に移動したため、今は川に沿って家が数軒ごとに点在していて、コンビニはないので定期的にやってくる移動販売と、少し遠いが「道の駅ひがしちちぶ」まで行かなくてはならない。

 槻川沿いを歩いていると、沿道にコスモスがちらほらと咲いていて、すっかり枯れた彼岸花が茎だけ残っている。骨格だけの紫陽花にも少し花が咲いていた。「槻川を綺麗にする会」が作ったらしい花壇にはやはりコスモス、そして隅にコルチカムとシクラメンがにゅっと咲いていた。茂みの奥からはカワセミの鳴き声が聞こえてきたが、霧のため姿は目視できなかった。先着の釣り人を数人見かける。西武乳業の青いベンチが特徴的なバス停の名前は「霧ヶ路」。人家と人家の間に細い道が幾つもあり、その奥にまた人家があるので、これが地名の由来かと思われる。どの人家にも家紋付きの立派な蔵があり、肌寒い秋の早朝だというのに(そして標高もそれなりにあるというのに)老人が白い息を吐きながら半袖短パンでダンベルを持ったまま突っ立っていた。また、やはり過疎化が進んでいるからか、中には家ごとアレチウリに呑み込まれてしまっいるものもあった。

 とりあえず散歩して過ごそうと決めていた。Googleマップを見る限りでは順調に歩けば今日中には水源の近くまで辿り着くはずで、山道前に親戚が採算度外視の余生の趣味として民宿を営んでいるので、そこに宿泊させて頂く予定になっていた。僕とその親戚は僕が幼い頃に曽祖父の葬式でいちど会ったきりで、あちら方は余り行事に積極的に出向く方ではないのと、僕が実家を出たこともあって会う機会がなかなかなかった。祖父曰く(その親戚は祖父の弟なのだが)、昔から物静かで何を考えてるかはわからなかったが、九人兄弟の中で一番頭が良く、博士号まで取得した後になんらかの縁を頼って静岡の私立高校で教師を務め、十年ほど前に定年退職して海沢に移り住んだのだそうだ。祖父はいつも兄弟の話をするときはどことなく自慢気なのだが、その弟の話をする際は特に嬉しそうに話していたので、兄弟の中では相当優秀だったのだと思う。静岡に行ってからは余り実家に帰ってこなかったとのことだったので、祖父の中での弟が昔の聡明で病弱な少年のまま残っているのかもしれない。

 さて、その日は予定どおり川沿いを延々と歩き、目的の源流地点を指し示す看板までたどり着くことができた。とにかく霧は晴れることがなく、ある人のブログでは源流地点を進んだ辺りから見下ろす集落は素晴らしいとのことだったが諦めて引き返すことにした。道中、沢沿にちらほら真っ白いアゲハ蝶大の蝶が弱々しく舞っているのが印象に残った。素手でも捕まえることが出来、人に捕まっても我此処に在らずと言った風で、放してやっても一分は手のひらでじっとしており、やっと弱々しく飛び出した。人差し指には銀とも灰色とも付かない暗めの煌めきを放っていた。

 また印象に残ったのは行き交う*1人々の表情と会話だった。表情は霧のせいかどことなく翳って見え、会話は非常に曖昧で、当事者間以外には通用しない指示語ばかり。僕の地元にも「赤の他人に会話をむやみに聞かせるべきではない」という了解はあるが、それにしてもこの雰囲気は少しばかり異常だ、と感じた。典型的な限界集落なので、子供の姿は一人も見なかった。

 一見すると人家と見分けのつかない、入り口にでかでかと木彫りで「雲散霧消」と書かれた看板のある民宿に着くと、外で親戚の方(此処で名前を出すわけにはいかないので、以降は七男と表記する)が吊るし柿を作っていた。僕を見つけるや否や、七男さんは僕に「こんなしっけてちゃ柿作っても意味ないわなぁ」と無理やり笑みを作ってお茶を淹れてくれた。

 民宿と言っても部屋を貸しているだけ、という風で、七男さんも久しぶりの客だというので祖父の話から想像される寡黙な姿とは違って饒舌に海沢に関わる様々な話を聞かせてくれたが、終始表情は変えなかった。和室に通されると、埃を被った蝶の標本箱を見つけたので尋ねて見ると、「昔、そういうのが趣味だった時期もあったかもしれない」と答えてくれた。そこで先の幽霊のような蝶のことを思い出し尋ねてみると、七男さんは一瞬はっとしたような顔になって、その後すぐに元の無表情に戻ると、「その蝶は難しい」と言った。

 どうやらその蝶は非常に「脆い」らしく、標本には向いていないのだそうだ。しかも、死ぬと直ぐに翅の色が濁るらしい。最も、僕はもうそういうのやらなくなったから、と七男さんは言ってから、「その蝶ね、霧がある時しか現れないんだ」と教えてくれた。もしかしたら新種かもしれないけど、やはり七男さんはもう興味がないようだった。現時点でも、その蝶の名前は調べても出てこないので、本当に新種なのかもしれない。

 お風呂と夕食(山菜天ぷらそばと手作りのプリン)を頂いた後、寝る前に再び七男さんと話したが、その際「もしかしたらあの霧は蝶の鱗粉なのかもしれんね」とボソッと呟いていたのがやけに印象に残った。祖父からの言伝で、たまには曽祖父の墓参りでもなんでもいいから帰ってこいと言っていたことを伝えると、七男さんは少し不機嫌そうな表情になり、「実はね、長いことあっち*2もう覚えてないんだ、申し訳ないんだけど」とぶっきらぼうに言った。それから畳み掛けるように、「あんまり親戚づきあいとか、人付き合いとか、そういうのが苦手なんだ。でも此処はいいよ、みんな霧とかで顔がよく認識できていないからかな、人付き合いが曖昧なんだ。ここら辺の人はボケるのが遅いって言われてて、県の認知症予防のモデルにもなったらしいんだけど、なぜかっていうとみんな初めっから記憶が曖昧なんだよね。忘れるも何もないよ」というふうなことを言った。もしかしたら宿泊するタイミングが良くなかったかもしれない、と思い、とりあえず直ぐ寝床に入った。

 次の日、早朝に目が醒めるとやはり霧が立ち込めていた。作りかけの吊るし柿が縁側に放置されていて、滴る結露で濡れてしまっていたのでそのことを朝食後に伝えると、七男さんは「あーれ、作ったんだっけ、そういえば」と言ってまた無理やり笑っていた。帰る際に、七男さんは祖父に宜しく伝えてくれ、そのうち帰るとも言っておいてと頼まれたが、僕には到底帰るようには思えなかった。今日はひどく暑く、川沿に下り始めると直ぐに霧が晴れた。そういえば、海沢に霧がよく掛かるのには地理的な要因もあるらしい。川に沿ってあの蝶を探したが、道の駅に着くまでついに見つからなかった。次にあの場所に向かおうと思った時にはもう何もかも無くなっているのかもしれない、と思うような、今も記憶が霧掛かっているように感じていて、そして次に七男さんに会うときはおそらく彼の葬式になるであろうと予感するような(不謹慎極まりない)、そういう短い旅行だった。

 というのはフィクションで、大学の文化祭の手伝いとセミナー予習であっという間に三連休が終わっていました。

 

 

*1:と言っても数人の地元の住民としか会わなかったのだが

*2:静岡のことと思われる