日記11/30

  特に何もなく最近思うこと:自分は旅(または長距離の移動)が好きだというより、それによって引き起される衝動的な内省を望んでいて、たちの悪いことに自分の内省は移動によって引っ張られる形のみ起こることを今までの人生経験から悟りつつある。こう表現すると言い過ぎだが、(昔からよく人に自意識過剰が過ぎると注意されるように)全てが鏡の様に思えて、旅をして知らない地方の知らない人を喋るとき頼りにするのは自分が持っている経験で、はじめは他人との意思疎通の側面より自分の内面を深め続けるものなのではないかとさえ思えてくる。そういうことを考える度に自分はSNSはおろかインターネットそのものには全く不向きな性格であることを痛感せざるを得ない。今までの数々の強い拒否反応は他人から見れば理不尽であれ自分にとっては非常に納得できる形で現れており、例えば僕は文章というものは何が書いてあるかより発音した時の音が滑らかかどうかが(もっと過激に言えば、何が書いてあろうと音を優先して理解すべきと考えているぐらい)大事だと思っているが、多くの人はそうではない様な気がする。滑らかな文章はまず(それを口に出そうと前々から考えていない限り)口にすることが出来ない。口に出来ないということは、つまり、(ここで飛躍)、綺麗な発音がされる文章にはたいてい良く練られた冗談が書いてあるんじゃないか、と思える。やりたいこと(やるべきこと、なされるであろうこと)については多くの人はわざわざ音を整える必要を感じていないはずで、綺麗とは言えない音の文章を読んだ時はその人の気持ちをある程度推し量る(妄想する)ことが僕にとっては自然であり、ここで非常に強い拒否反応が起こることがある。なお、上の冗談は創作を含む意図で用いている。私はそういった種々の(おそらく他人からすれば強い)前提を設けており、それが度々軋轢を起こすこともなくはない(あまり記憶にありませんが)。結論としては、私は大きく綺麗な川よりは、落ち葉の堆積する様な小さな小川の溜まり、それもホトケドジョウが棲んでいたりする様な、や、地元に点在するいつからの水とも知れぬ農業用溜池の方が好きだ。自分はそういった土俗に縛られています。

 最近はそういうことばかり考えている。題は最近、地元で早朝からサイクリングすることがあって、山を取り巻く朝霧と野焼きが交わっている光景が非常に印象に残っていたので、そういうことです。一面真っ白で、焼ける匂いが記憶に残りました。それが今回の内省を引き起こしているというオチ。

 後こう言う「思考の一人歩き」は大変危険だと感じるので控えたい。