日記9/13

 睡眠から覚醒への接続がだいぶ滑らかになったようだが、同時によく寝たという感覚が薄れているとも思う、もしかするとこのまま平らになってしまうのかもしれない。いや、眠りに落ちている感覚があっても眠りから覚める感覚が余りないので、もしかすると日々落下している。久しぶりの阿部共実の新作「月曜日の友達」はとても面白かった。つい最近、久しぶりに平沢進TMGE(THEE MICHELLE GUN ELEPHANT)の音楽を聴いた。高校生になって直ぐ、平沢進の曲を初めて聴いたとき、音そのものも去ることながら*1、第一印象としては歌詞の(言葉の)接続、またいわゆる言葉遣い、が強烈に残っている。今までに組み合わせたことのない言葉たちの口触りの滑らかさに驚き、幾度か歌詞を反芻したり歌ってみたりした(同級生に平沢進戸川純が好きな友人が居たことが大きく影響している)。おそらく平沢進を知った次の年にTMGEを知り、この時も同様の理由で感動を覚えた。今でも「苺のなる木を燃やして暮らすよ」という言葉*2のどうしようもなさはすごい好きで、時折ふと頭に浮かぶことがある。まず苺のなる「木」というのは少し違和感があるし、加えて「燃やして暮らす」という文章も意味がはっきりとしない、それでも音の繋がりは本当に良くて、歌として聞いていたらなるほどと思ってしまう。話は脱線するが、苺はバラ科でバラ科といえば「木」(木立バラ)でもいい気もする。ちなみに「イチゴノキ」という苺に似た実をつける木があって、これはツツジ科。

 で、この二組のアーティストたちに共通項を見出そうというつもりはさらさらなかったが、僕が好きな数少ないアーティストなので何らかの共通点があってもおかしくはないな、と考えないでもない。平沢もTMGEも歌詞のなかで展開される世界が由緒正しい元の世界に「カットアップ」を施したようなものだ、と思ったのは恐らく半年から一年くらい前のことで、カットアップという言葉を知ったのは恐らく人工知能周りを勉強している高校の頃の同級生と会ったり「コンピュータが小説を書く日」という本を読んだことがきっかけだったと思うが、実のところを言うと今となってはこの思い込みは間違いだと感じていて、ならどうして書いているのかというとよく分からない。

 文芸のサークルに在籍していた過去も手伝ってか、たまに何らかの文章を書きたくなる時があって、そうして書き連ねた文章たちをざっと見渡すたびにいかにたくさん本を読んでも平沢のような新しい言葉の(、また言葉の音の)繋がりは生まれないだろう、と感じる。適当な文章をそれこそカットアップして、まるで砂漠で与えられた砂粒一つを探すように、カットアップされたものから良い文章を苦労して選び取るようなことをすれば良いのではないかと思わないでもない。そのようにして選び取られた文章は完全に「自分よりも外」から来たものだ。もちろん本を読んで見た、覚えた文章だって自分から湧いて出たわけではないが、平沢の(世界観は抜きにして、文章そのもののみを見た際の)歌詞の繋がりと言葉選びに対して抱いている茫漠たる「異言語感」はここまでしないと(そしてそこまでしても)発見できないと思う。どうすれば行く列車の塵は砂丘に文字を書くのだろうか*3

 そういえば先日の日記に書いた「動物の糞に生える苔」はオオツボゴケだった。

 追記:最近は「虚ろである」と言う事に敏感になっていて、それが上の共通項にある程度の回答を与えているようだと勝手に納得している。これ以上の説明はなし。

*1:音についての言葉をよく知らないので賞賛することもできない

*2:strawberry gardenという曲の一節

*3:"百年彼方の空より見守る"と