日記9/8

  薬を増量した影響で眠気がひどい、とここ数日思っていたものの、ただの睡眠不足らしいことがわかった。医者には副作用として胃が荒れるかもしれない、あるいは食欲減退がありうると言われたが、ネットで調べてみると眠気、意欲が無くなる、勃起不全など色々書かれていて不安だ。しばらく実家の周辺を散歩した。県道を外れると直ぐに田園、農業用水の深い茶色の、きっと数十年昔と同じ水を湛えているだろう溜め池が点在するアレチウリに埋もれた小さな河川敷に出る。川沿いに歩いていると、たまにアレチウリのなかからアオダイショウがするすると這い出てきて蛇も僕も驚いて逃げ出す。祖父が元気だった頃の人参と大根の畑が隣の森と一緒にアレチウリに覆われて波の静止画、葛飾北斎が描いたようなそれ、になっていて、一緒に野菜を収穫した頃のことを思い出さなくもない。電柱付近にはセミの頭部がいくつも転がっていて、クワガタの足らしきものが落ちている。そういえば、今年の初夏、ふとホウネンエビを見かけなくなったことに気付いたのだった。ホウネンエビは春が過ぎた頃の田圃で見かける透明色のエビで、田圃の土中で越冬するほど卵が乾燥に強いので(クリプトビオシスと言うらしい。おそらく人生で二度と見かけないだろう)、ホームセンターで飼育キットとして売られているのをたまに見かける。その特性ゆえエアーズロックの頂上の水たまりにしか生息しない種があることは知っていたが、今調べたところこの種は「観光客の排泄物」による富栄養化水質汚染で絶滅したらしい。残念だ。エアーズロックの山頂の水たまりや、ギアナ高地の大穴、人体に有害なガスで充満した鍾乳洞など、人界から隔絶された大地で済む生き物をことを考えるとなんでも起こる気がして胸が踊る。そういう類の話題では、二年ほど前からたまにそこら中に生えている苔の写真を撮って種類を調べたりすることがあるが、動物の糞に(しか?)はえない苔というのがあったと思う。僕が好きな苔はキヨスミイトゴケだ。高尾山などで見かけるが、触り心地が毛糸のようで気持ちいい。さて話を消えた地元の生き物たちに戻すと、清流の代名詞であるサワガニも見かけなくなったと思う。僕が知っている町内のサワガニが採取できる箇所のうち一箇所の川は隣町との橋を建設するための人柱ならぬ蟹柱になり、今その橋の下に流れていた清流は工事により流れを弄られ、跡には無残な小川がちょろちょろと流れるのみになってしまった。最近川に魚を採りに行ったが、サワガニ同様、シマドジョウもめっきり採れなくなった。田圃のドジョウがU字溝の整備などで激減している今、子供がドジョウを見る機会は少ないと思うし、オケラのように童謡でのみ語り継がれる存在になってしまうのかもしれない。エビはよく取れる。エビは水質が悪いと茹でたみたいに赤くなった死んでしまうので飼育には非常に気を使った思い出がある。それでも、地元のボランティア団体を手伝った際には森林の湧水の側でホトケドジョウ(ふっくらした可愛いらしいドジョウ、確か準絶滅危惧)とサワガニ、それにトウキョウサンショウウオを見つけることができ、彼らが町に確かに息づいていることも確認して嬉しかった。

 時折、人の手により生き物たちが姿を消すことを心配する一方で、自分が童心を失っているから彼らが自分の前に姿を見せないのではないかとも考えることがある。身長が高くなってバッタと目を合わせることもなくなり、虫取り網を持って町中を駆け回ることに引け目を感じ、それなりに体系的な知識を得て、知らず知らずの内に虫自体を捉える感覚が衰えたのかもしれない。バッタの姿は目に浮かぶけれども子供の頃のように首と胴体を引っ張ったら白い筋のようなものが見えたとか、「醤油バッタ」の異名のように口から(厳密には消化管から?)臭い茶色の液体を吐き出すとかそういう生々しいものはなくなってしまっていて、昔のように「感触から風景」ではなく「文字から風景」というふうな想起の方法になっている。*1僕が生き物たちを見なくなったのは、自意識過剰を自覚しながら思うことには、何者にもなれないことを痛感して自分の可能性が段々と狭まってゆくように感じる、そういうのと同様の理屈だと思う。中島敦の「悟浄出世」あるいは「文字禍」でもこういう現象について言及されていた。関連して、こう言うと余りよく思われないけれども、何事においても知らない(あるいは、中途半端に知ってしまう、ということがない)ということは非常に恵まれた状態だと思う。知識はある種の気楽さの妨げにしかならない、億劫だという気分になることすらある。存在するかも分からない瑞々しい素直さを出来るだけ保っていたい。やはり薬を増量したからか眠いので明日から少し減量しようと思う。

 

*1:現に今文章を書いているように.